世界は、記号になることで豊かになる|モネの光と「きらめく日本」

世界は、記号になることで豊かになる|モネの光と「きらめく日本」

絵画に対する先入観

今振り返ると、私は思春期の頃の1990年代、音楽産業が全盛だった時代だった。
電子技術の発達によりもたらされた楽器の音、PVによる視覚情報、メディアから繰り返し流れてくる楽曲。

一方、絵画の印象は、歴史的絵画ですら五感を焼き尽くすような、音楽がもつ圧倒的な感動と比較すると、静かで、鈍く、心を大きく動かすものではなかった。

自分には描けないだろうし、うまいことは分かる。しかし、あまりにも静かで、わざわざお金を出して鑑賞したり購入するまでもないように感じていた。美術館のチケットを、興奮とともに握りしめて通うようなことはなかった。


感動は、予想外のところからやってくる

社会人になりたての頃の休日、大学時代の友人と新潟県に旅行へ行った。

無計画な旅行だったので、とくにやることもなかったが、近くの美術館でモネ展をやっているとのことで、行くことになった。

美術館につくと、モネについて説明をしてくれる音声ガイドを片手に、並べられたかなりの数のモネの絵を、絵が分からないにもかかわらず、意味ありげに見ている自分にどこか気恥ずかしさを感じながら、キョロキョロしていた。

すると、タイトルは忘れてしまったがオランダの風景を描いた絵の前で、急に、モネがキャンバスの上に光を閉じ込めたがっているように感じた。

少年時代からずっと、怒られた日も、暑い夏も、寒冬の日も、いいことがあった日も、不思議に豊かに光を照らし、さまざまな相貌を見せる光。

それは、恐ろしいほど表情豊かに、例えば一本の木にしてみても、ほとんど無限の色合いがあった。


その光を、絵の具をキャンバス上で組み合わせるという作業で、キャンバスに閉じ込め描こうとしているように思えた。

その絵は、見事にキャンバスから光が溢れていた。

そんな絵は見たことがなかった。
ラファエロやレンブラントは、それぞれのテーマをもっており、肉厚感や人の魅力、光と影を描いていた。
しかし、絵の具とキャンバスが色の波長を吸収していくにもかかわらず、キャンバスから光が溢れていることを、不思議に感じた。

しかし、また同時に、理由はわからないが、その後のモネの絵は、乱れていくだろうという予感を感じた。自分が心血を注いで、達成した光をキャンバスに閉じ込めるという作業の限界まで到達したものの、その道自体がまちがっているのではないかという疑問に襲われていたのではないか。

実際に、後年のモネの絵の変遷は、晩年は目の病気ということもあったそうだが、絵は非常に乱れて行くように感じられた。

無限に広がる自然風景の可能性のなかで、ある解釈により絵を再現したところで、自然がもつ魅力を低減させているのではないのか。

この自然がもつ恐ろしいまでの魅力を、キャンバス上に再現する方法はないのか。

モネの苦悩が伝わってくるようであり、人生を賭してつくろうとした絵画の形式が、どれも不満であり、敗北ということを感じていたのではないかと思えた。

しかし、なぜかわたしには、それは勝利のように感じられた。ただ、その理由は分からなかった。


本当の感動がやってきたのは、次の日であった。

友人が運転する車の後部座席から、永遠に続く海原を眺めていると、海がモネの描いた絵のように見えだした。

それは、30年近く生きていて、海が初めて見せる姿だった。

海の水面に反射される光は、無限の複雑さであることをやめ、数個の色とシンプルな対比から構成される色の組み合わせであるかのようだった。

それは、惑星がニュートン物理学により、その自然の神秘の暗号を解かれたかのように、自然がもつ美しさの暗号が解かれたかのようだった。

しかし、不思議なことに、暗号が解かれても、秘密性により魅力が失われたわけではなく、海はより輝きだした。

そもそも暗号解読という問題は、つまらぬ比喩で、本当はそういう問題ではないのかもしれない。

いずれにせよ、確かな感動はやってきた。

しかし、これについて誰かに話しても、どんなに説明しても、絵について分かったふりをする面倒なやつということで終わりそうであった。結局、分かったふりであることは変わりないのである。


ただ、そんな個人的な状況とは関係なく、モネは、歴史上には名前の残らなかった無数の才能ある画家がいるなかで、才能はもとより、何らかの偶然も含めて、人類の美的感覚の継承と発展という性質のなかで、ある象徴的記号としてその意味を詰め込まれ社会に浮遊している。


きらめく日本


「きらめく日本」シリーズを見ていると、この20年ほど前にモネの絵を見たときのことを思い出した。

モネは、複雑な自然を、限られた絵の具とキャンバスで表現しようとした。光を単純化したのではない。光の豊かさを人間が表現可能な記号で置き換えたのだ。

クロスステッチも、それに少し似ている。桜を、桜のまま写すことはできない。紅葉も、波も、雪も、限られた糸の色と、小さなクロスの組み合わせへと置き換えていく。

そこでは、
「この花びらは何色なのか」
「光が当たると、どんな色になるのか」
「影は本当に灰色なのか」

そんなことを知らず知らずのうちになんどもなんども考える。


世界を単純にしているようでいて、本当は逆なのだ。
一度、糸という記号へ、適切に翻訳することで、現実の世界を、以前よりも豊かに見られるようになる。

数学や物理学も同じである。自然そのものは、数式ではない。

しかし、人類は自然を数式という記号へ置き換えたことで、その法則を理解し、やがて人工衛星を打ち上げ、ロケットを宇宙へ送り出すことができるようになった。

世界を単純化したから理解できたのではない。

世界を記号へ翻訳し、その構造を何度も考え、組み立て直したからこそ、現実をより深く理解できたのである。

クロスステッチも、それと少し似ている。
「きらめく日本」シリーズは、花鳥風月を、限られた糸と小さなクロスという記号へ置き換える。

自然の魅力は、そこにあるだけでは文化にならない。人間がそれを記号へ翻訳し、表現として定着させたとき、初めて人類の共有財産となる。「きらめく日本」シリーズもまた、そのような新たな日本の魅力を、この世界に生み出す営みなのである。





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